堀江さんはなぜ有罪なのか
堀江さんが証取法違反で有罪となった。彼の様子を見ていると、本当に会社の細かいことは知らなかったのではないかと思わせる。報道以外に何の根拠もない一般人としての立場から有罪の訳を考えてみた。
まず、一つめは、既成の社会の隙間を狙ってお金を儲けたことに対する反発だ。堀江さんの存在は、ニートやフリーターなどという言葉で押し込められている若者が、自分たちもいつかああなる方法があると夢を持たせたが、一方で社会的な地位や利益を既にもっている層からは反感と反発をもって迎えられた。だから、近鉄バファローズを買収しようとしたとき、読売、渡辺社長から罵倒された。あんなやつは入れないと言われた。金さえあれば何でもできると思うなということだ。
二つめは、日本放送に手を出したことだ。フジサンケイグループは、扶桑社を含めて政治的にある意図を持って動いている。それをどう評価するかはそれぞれの問題だが、その政治力の恐ろしさを見誤ったということだろう。マスコミは様々な意味で権力だ。一人の人間をどうにでもできる。(最近、ネット世論も一つのマスコミになりつつある。今は本当に思ったとおりには書けない。だからソーシャルネットのようなクローズドなネット社会が作られるのだろう。)
三つ目は放っておくと稼いだ巨額な資金と株で、日本の既成の企業を買いまくり、現在のオールドな資本主義体制を突き崩す可能性があったということだ。防衛体制が十分でない会社の責任者たちは、落ち着いて眠ることもできなかっただろう。それによって、からくも秩序だっている株式制度が揺らぐ危険性を感じたのだろう。
四つ目は、彼の既成の社会に対する反骨精神だろう。新しい物に挑戦する姿勢は、獲得したものたちからいうと、奪う者に見える。彼は持たざるものにとって夢だった。貧しい人を豊かにする可能性があるように見えた。少なくても堀江さん本人は、そう思っていたのではないか。だから、持っている側からの反攻をくらった。
五つ目は、結果的に株主に損害を与えたことだ。これは、会社が順調にいっていても可能性はあるわけで、当然その結果は誰かが負わなくてはならない。
だから、堀江さんの有罪はどう争っても確定している。既成の社会が作った組織の一つである裁判所は、堀江さんの立場に立つことはない。検察も当然そうだ。だから、いくら堀江さんの主張が正しくても勝つ見込みはない。でも彼は戦うのだろう。それが彼の存在意義でもある。
この社会をどう変えていくのか、それがテーマであったはずだ。このままでいいのかという思い、それが大切なのだ。社会的にも、政治的にも、経済的にも、哲学的にも、常にこれでいいのかと問うことが大切なのだ。一時的な間違いや遠回りはある。でもそれはその時代の責任でもあるのだ。個人が当然引き受けなければならないときもある。でも、その人一人が悪いなんて、そんなことがあるわけないではないか。彼は次のステップに立ってほしい。この勝負はもう終わり。次に何をするかに注目していたい。
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